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『村を育てる学力』 [書籍]


村を育てる学力 (1957年) (教師の仕事〈第1〉)

村を育てる学力 (1957年) (教師の仕事〈第1〉)

  • 作者: 東井 義雄
  • 出版社/メーカー: 明治図書出版
  • 発売日: 1957
  • メディア: -


上條晴夫さんは『子どものやる気をひきだすノート指導』(学事出版)において、「入力型ノートと出力型ノート」を提案しています。それぞれ、次のように定義されています。

 入力型ノートとは、情報の蓄積をするノートである。

 出力型ノートとは、情報の発信ができるノートである。

このような定義が導き出されるもとになっているのが本書です。上條さんは次のように説明しています。

 次は、東井義雄氏の『村を育てる学力』(明治図書)にあるノート機能の分類である。
 よく引用される分類である。

 (1)練習帳的機能
 (2)備忘録的機能
 (3)整理保存の機能
 (4)探究的機能

 このうち、(1)、(2)が伝統的なノート指導である。
 練習帳的機能とは漢字・計算の練習など。備忘録的機能とは板書を写すなどのノートの使い方である。ポイントはどちらもノートをきれいに書かせることである。
 たとえば、次のようなことを指導する。
 ていねいな文字で書くこと。
 レイアウトすること。
 色分けすること。
 しかし、これからの新しいノート指導では、この「練習」、「備忘」は必ずしも中心的役割を持つとは考えられない。もちろん「練習」も「備忘」も大切なノート指導ではある。とくに低学年では大事である。
 しかし、これらは言ってみればノート指導の基礎といえる。
 調べたことをまとめるのが「整理」であり、考えたことを深めるのが「探究」である。
 東井氏は、調べたことをノートにまとめることで、それが保存されるだけでなく、はっきりするという。書くことで考え、考えながら書くことで問題を発見するという。
 問題は「練習・備忘」を基礎に「整理・探究」の機能をどう発展させるかである。
 わたしは東井氏の「練習」「備忘」を「入力型」、「整理」「探究」を「出力型」と呼んで再整理をしてみたい。なぜなら、これからの学習は入力型ノートではなく、出力型のノートを要求するようになるはずだからである。

東井義雄さんの「ノート機能の分類」については、本書の「学習帳——このよいもの」の項に出てきます。その他にも、「自分の胸中にわだかまっている、怒り、腹立ち、悲しみといったようなものを『排泄』する」機能も紹介されているのですが、ここでは「整理」「探究」に関わる実践記録を紹介しましょう。五年生の年度初め、最初の算数の時間です。教科書の表紙に描かれている挿絵を見せながら、「はてな」と考えるように促す授業です。

 「どうだね、みんなにも、『はてな?』があるかね。」
 「はてな、黒板の長さはいくらかな?」
 Kがつぶやくと、
 「はてな、算数の本のねだんはいくらかな?」
 「はてな、算数の本は何ページあるかな?」
 「はてな、算数の本の重さはいくらかな?」
 「はてな、教室の窓ガラスは何枚かな?」
 「はてな、教室の窓ガラスのねだんは、みんなでいくらかな?」
 「……」
  こどもたちは口々に「はてな?」をみつけてしゃべりだした。  「まて、まて、はてなは、教室の中だけにあるんではないぞ。道にも、みんなの家にもいっぱいある。そういう『はてな?』を忘れては『はてな?』が泣くぞ。」  「はてな、学校から家まで何キロメートルあるかな?」  「はてな? 学校から帰るのに、時間はいくらかかるかな?」  「大分たくさん、はてな?がありそうだが、残念なことに、みんなのはてなは少し安物のようだ。『はてな?』と思うだけで、みんな『はてな?』を捨ててしまっているじゃあないか。捨ててしまったら、はじめから拾わないのと、おなじだよ。」  「はてな?黒板の長さは四メートルくらいかな?」  「はてながちょっと上等になったね。まだ安物ではあるけど。」  「そんなら先生、巻尺かしてください。」  「はかってみよう、というんだね。その意気ごみだ。今年の算数の勉強は、そういうつもりでやろうね。」 ということで一時間を終った。  翌日、委員長のKがもって来た算数ノートには、次の記録が書かれていた。まだ、低い段階のものではあるが、これが、算数ノート発足の第一号であった。     しらべる算数          岸下庄二  きょうは、まだはじめなので、勉強はひるまでで終った。  はてな?何分でかえれるかな、しらべてやろうと思って、先生に時こくをきいたら、十二時十五分だといわれた。ぼくは、せいだして帰った。家つくと、十二時三十五分だった。かんじょうしてみると、二十分かかっていた。いつもだったら、五十分はかかっていると思う。すると、いつもより、三十分も早く帰ったということになる。これまでは、三十分もむだにしていたのだ。これからは、きょうのちょうしで帰ろうと、けっしんした。  私は、二日目の算数の時間これを発表させ、ねうちのありそうなところを、考えさせた。  ○はてな、と思ってしらべる。  ○はてな、と思って、先生に時刻を言ってもらっている。  ○かんじょうしている。  ○ふだんのと、くらべてみている。  ○けっしんしている。  そういうところに、ねうちのあることを見させた上で、ほかの子どもたちにも、こういう記録を書くことをすすめ、早速、教室内のいろいろを、ほんとうにしらべてみる学習にはいっていった。しらべは記録させた。  三日目は、さらに、しらべる算数がふえたと共に、「くらしをしらべる理科」が誕生し、次の日には「くらしをしらべる社会科」が発足した。  まだ、四月の終りまでには、余日が残っているが、今年は、思いの外はやく、各教科とも、学習帳による学習が、レールの上にのってきた。 東井さんが「はてな?」にこだわらせながら子どもたちとやり取りしている様子が伝わってきて興味深いです。上條さんもこだわっていた「追究」という《教育内容論》について、教科を越えて幅広く考えていきたいものです。 なお、本書は『東井義雄著作集1 村を育てる学力他』(明治図書)などでも読むことができます。 Ⅰ 村の教師はどう生きるか  一 子らのうた  二 つばくろのうた  三 私たちは問題のまん中にいる   (1)ある母親の詩   (2)「子どもが……だまっとれ」   (3)「ちっともいうことをきいてくれません」   (4)学校の麦と村の麦   (5)学校は信じられているか   (6)「進学できるかと心配だ。もっと力をつけてやってほしい」  四 村の教師の生きる道   (1)さまざまな生き方   (2)「たたかい」は問題を解決するか   (3)第一義のもの・子ども   (4)親・子・教師の磨きあいと育ちあいを求めて   (5)村を拓く四つの鍵       —親・子・教師の育てあうもの—     <その一>——愛     <その二>——合理的な知恵・生産的な知恵     <その三>——喜びをみる知恵     <その四>——手をつなぎあって生きる生き方   (6)親・子・教師の文集『はぶが丘』 Ⅱ 生きているということのすばらしさの中で   (1)夕焼の小便   (2)いのちのであいを大じに   (3)生きているということのすばらしさ   (4)「パンツがよごれる」   (5)子どもが一番求めているもの   (6)わたしはどうすればいいか   (7)みぞれの降る日   (8)「教える教育」の限界   (9)「モンジャナッテヤジャナイ」   (10)M君の思い出   (11)ものを言わない子ども   (12)子によりて   (13)三校長に学ぶもの   (14)愛と知恵   (15)若き保母S先生の記録 Ⅲ 村の子らに力を——村を育てる「学力」と「構え」  一 感傷はゆるされない  二 子どもはどう太るか   (1)モリタミツに学ぶ   (2)教科の論理と生活の論理   (3)日本のひろがり   (4)「文字力」をつくるもの   (5)「読解力」を育てるもの  三 学力の普遍性と地域性   (1)学力の普遍性   (2)学力の地域性   (3)「村を捨てる学力」と「村を育てる学力」   (4)澄ちゃんという子どもの学習  四 生活を育てる道   (1)作文的方法への注目   (2)教科を大じにする作文   (3)作文の育つ土   (4)くらしを拓くために  五 学習帳——このよいもの   (1)頭を働かせるということ   (2)学習帳のはたらき<その一>   (3)学習帳のはたらき<その二>   (4)学習帳指導の問題点とその克服策  六 村の学校の教科経営   (1)「愛」にたつ学習   (2)村の学校の国語学習   (3)村の学校の算数学習・理科学習   (4)村の学校の家庭科学習・社会科学習   (5)村の学校の芸能科学習   (6)学習形態の探究  七 木々は芽をふく   (1)いのちをふれあって働く子ども   (2)村のおとなたちの中に育ちつつある芽   (3)K君の生き方 あとがき
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